俳優として活躍する古原靖久さん。
吉原さんは子供の頃、養護施設で育っていて生い立ちについても話題となっています。
児童養護施設では地獄の日々だったようですが、どこの養護施設に入所していたのでしょうか?
今回は古原さんが入所していた養護施設を生い立ちと合わせて調査しました!
目次
古原靖久の養護施設は「聖友ホーム」
古原さんが5歳で入所した養護施設は「聖友ホーム」です。
東京都杉並区阿佐谷北3丁目28−19
ここでの生活は厳しいもので、相当大変だったようです。(※20年前の話です)
そもそもなぜ古原さんが養護施設に入所することになったのでしょうか?
古原靖久の生い立ちが壮絶だった!
母親が16歳で出産
京都府で生まれた古原さん。
両親は母親15歳、父親20歳の時にディスコで知り合ったそうです。
そして16歳の時に古原さんを妊娠しますが、
出産を両親(古原さんの祖父母)に猛反対されてしまいます。
そのため両親は、
かけおちをして古原さんを出産
16歳でのかけおちは相当覚悟してのことだったのでしょう。
両親の離婚
両親とは京都で4歳まで暮らしていました。
両親とも夜の仕事をしていたそうです。
よく覚えているのは
- 母親の職場に一緒に行ってポッキーを食べたこと
- 父親とパチンコに行ったこと
そんな中、古原さんが4歳の時に両親が離婚。
母親に引き取られることになります。
離婚後に東京に引っ越し、母親との2人暮らしが始まります。
5歳で養護施設に入所
夜の仕事をしながら古原さんを1人で育てていましたが、金銭的な状況から難しくなってしまったそうです。
そのため前述にある
児童養護施設「聖友ホーム」に入所
ここでの生活は当時相当厳しいものだったようです。
施設で地獄の日々
古原さんは、ここでの生活は「地獄の日々」だったと話していました。
施設は弱肉強食で、幼い古原さんにとっては大変なものだったようです。
- 肉は年齢が低いと上級生に食べられてしまい食べられない
- ケンカしろと強要される
- 施設のスタッフから長時間の正座をさせられる
肉などのタンパク質は、給食で摂っていたいたんだとか。
古原さんは曲がった事が嫌いで正直な性格。
そんな古原さんを施設のスタッフや上級生は良く思っていなかったようです。
そのため目をつけられ、理不尽な扱いもされていたそう。
この頃はどう毎日を生き抜くかずっと考えていたそうです。
母親と会ったのは小5が最後
施設に入所している時は1.2か月に1回母親と過ごすことができたそうです。
しかし年齢が上がると回数が減っていき、半年に1回に・・・
そして小学5年生の11歳の時を最後に、母親は会いに来なくなったそうです。
子供の古原さんにとって辛い過去ですよね。
しかし子供ながらに母親に迷惑はかけたくないと思っていた古原さん。
現実を受け止め中学卒業までこの施設で過ごしました。
本名で活動する理由
古原さんが本名で活動するのには理由がありました。
どこかで見てくれてるんじゃないかって思って、本名で活動を始めました
引用元:文春オンライン
お母さんがテレビで自分を見た時に気づいてもらえるように本名にしたそうです。
それと、
「生んでくれてありがとう」
「元気でやってるよ」
と感謝の気持ちも伝えたかったそうです。
辛い経験をされた古原さんですが、やはりお母さんの存在は大きいですよね・・
そして、自分の過去を包み隠さず明るく話す古原さんの人間的な大きさも感じます!
2019年に母親が亡くなる
小学5年以降会っていなかったお母さんですが、
2019年に病気で亡くなっていたそうです。
古原さんは、亡くなって1年後に母親の姉(伯母さん)から連絡をもらったようです。
古原さんを生んだのが1986年で16歳の時なので、
2019年の母親の年齢は49歳前後だった事になります。
若くして亡くなられていますね・・・
古原靖久のプロフィール
- 名前:古原靖久(ふるはらやすひさ)
- 生年月日:1986年8月13日
- 年齢:38歳(2024年9月時点)
- 出身地:京都府左京区
- 身長:180㎝
- 血液型:O型
- 所属:フリー
まとめ
今回は、俳優の古原靖久さんの養護施設や生い立ちについて調査しました。
壮絶な厳しい生い立ちだったにもかかわらず、明るく前向きな古原さんは素敵ですね!
また同じ環境の子供たちにも勇気を与えているのではないでしょうか。
今後の古原靖久さんにも注目していきたいと思います!
最後までお読みいただきありがとうございました。